車だけでなくバイクのメーカーとしても有名な本田技研。国内でその名前を知らない人はそういないでしょう。本田技研が誕生したのは今から70年以上前にのぼります。今回は本田技研の歴史についてご紹介します。
本田技研の歴史をご紹介

1946年、当時は自転車での移動が主流でした。そんな中、本田技研の創業者である本田宗一郎は旧陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンと出会います。妻が遠くまで買い出しに行っていることを思い出し、そのエンジンを自転車の補助動力として使用しました。
そこから500基程度あったエンジンを自転車の補助エンジンとして作り変え、販売したところ注文が殺到。そこから本田宗一郎は自社製エンジンの開発に取り掛かりました。1947年にはHondaの名が冠されたエンジン「A型エンジン」を完成させます。本田技研の歴史はここから始まりました。
本田宗一郎は静岡県の生まれです。地元の浜松に小さな町工場を作り自転車用補助エンジンの製造からスタートさせます。1949年には二輪車の生産を開始させます。
さらに1954年本田技研は「マン島TTレース出場宣言」を出します。このレースはイギリス王室の属国「マン島」の公道で開催されるオートバイのレースです。世界中の有名なオートバイメーカーが参加するため、当時、ほかの先進国と比べると工業製品のレベルが低かった日本のメーカーとしてはかなり無謀な挑戦ともいえました。こちらのレースを制した車種はもちろん、無事故で完走するだけでも優秀車として認められます。
そして、レース出場宣言から5年後の1959年、本田技研はマン島TTレースに望みます。世間では完走するのは難しいという意見が大多数でした。そんななか本田技研の車両は見事完走を果たします。しかも4台ものマシンが完走を遂げました。さらに1961年のレースでは優勝をもぎ取ります。これによって本田技研のマシンは世界中のメディアから絶賛されることとなります。
4輪車の製造を開始
マン島TTレースで輝かしい功績を残した本田技研は1963年には4輪車の製造を開始します。最初に作られたのは「ホンダ T360」とうい軽トラックです。このモデルは高出力エンジンを採用していて「スポーツトラック」としての異名を持っていました。

F1への挑戦

本田技研は日本のメーカーで時初めてF1世界選手権に参加したメーカーです。1964年8月、本田技研初のF1マシン「RA271」でF1世界選手権に参戦。しかし、参戦当初は出力の高いエンジンを搭載していたものの車重の重さなどによって苦戦を強いられていました。
ところが1965年、本田技研は改良した「RA272」でレースに参戦。最終戦のメキシコグランプリで見事初優勝を果たします。初参戦から11戦目のことです。そして、1968年まで参戦を継続。しかし、そこからは本田技研のF1活動は休止と再挑戦を繰り返していくことになります。
1983年、本田技研はF1への挑戦を再開しますが、この時はレースカーの車体は開発せずにレーシングチームにエンジンを供給するという形でレースに参加することとなります。その結果、「マクラーレンホンダ」が誕生します。
80年代の後半には伝説のF1ドライバーと言われているアイルトン・セナがマクラーレンホンダに加入し、1988年のレースでは16戦中15勝と大健闘。さらにこの頃、日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催されていたということもあり国内でもF1への注目度はかなり高かったです。
本田技研のF1挑戦の詳しい歴史はこちらの動画からご覧ください。
これまで様々な新しいチャレンジをしてきた本田技研。近年、話題となっているハイブリッドカーや燃料電池車などの開発にも1990年代から積極的に取り組んでいます。さらに航空機や人型ロボットの開発などにも果敢に挑戦しています。これからも最先端の技術を駆使して私たちを驚かせてくれるでしょう。
