国内自動車メーカーのなかでも知名度の高い日産。「やっちゃえNISSAN」というキャッチフレーズも有名です。2018年に社長兼最高経営責任者であるカルロスゴーン氏が逮捕されたことでもその知名度は一段と上がりました。
今回はそんな日産についてご紹介していきます。
日産誕生までの歴史

日産自動車は1911年、橋本増治郎が設立した「快進社自働車工場」がルーツとなっています。橋本氏は当時、日本の交通事情にあうような小型乗用車の設計に取り組んでいました。その車は資金協力者である田健治郎氏、青山禄郎氏、竹内明太郎氏の3人のイニシャルをとり「DAT自動車」と命名されました。
その後、トラックの開発などに取り組むものの経営状況は悪化。1925年には一度解散してダッド自動車商会として再スタートを切ることとなります。その後、アメリカからの輸入車の増加によって大打撃を受けていた大阪の久保田鉄工所と合併し、ダット自動車製造が誕生。
ダット自動車製造は「DATSUN」という名を冠した乗用車を開発。これはDATの息子という意味の「DATSON」から来ています。DATSONという名前をそのまま使わなかったのはSONの発音が“損”を連想させるからです。そのため後ろのSONを太陽という意味のSUNに変更しています。
そして、この「DATSUN」の生産拡大に一役買って出たのが自動車部品を製造していた「戸畑鋳物」でした。自動部品の製造から自動車製造に事業の転換を企てていた戸畑鋳物はダット自動車製造を傘下に取り込みます。
その後、戸畑鋳物の設立者である鮎川氏の持ち株会社の日産産業と戸畑鋳物で出資し「自動車製造」を設立。1934年には改名してついに日産自動車が誕生します。

創業後、史上最大のピンチ
1990年代、日産自動車は窮地に追い込まれます。マーケティング戦略の失敗などにより業績は悪化し続け合理化を図るための措置としてとられた座間工場の閉鎖もむなしく赤字を食い止めることはできませんでした。
いよいよ倒産寸前となったところで手を差し伸べたのがフランスの自動車メーカー「ルノー」でした。事実上の球種合併という形で資金提供を受け入れて危機を乗り越えた日産自動車。このときルノーから派遣されたカルロスゴーン氏が社長に就任します。これが2000年のことで2001年には大量のリストラと経費の削減などによって7000億近い赤字が3311億の黒字へと転換しました。2020年現在、日産自動車は世界シェア4位を誇る大手自動車メーカーの地位を確立しています。
技術力の高さに定評「技術の日産」と呼ばれる所以

日産は自動車開発においてとにかく先進技術を積極的に取り入れています。その技術力の高さからモータースポーツでも輝かしい戦績を残しています。日産のスポーツカーとして有名なスカイラインは世界でも広くその名が知られています。
1964年に開催された第2回日本グランプリで他を圧倒する走りを見せつけるポルシェ。しかし7周目、日産のスカイラインGTがそのポルシェを抜き去りホームストレートへ戻ってきてそこにいた観客達を熱狂させました。
その後もモータースポーツ界での日産の躍進は止まりません。
1989年、1990年には世界スポーツプロトタイプカー選手権にフル参戦。全日本スポーツプロトタイプカー選手権では1990年〜1992年の間で3連覇を成し遂げ、デイトナ24時間レースでは1992年に総合優勝を果たします。
20年以上の歴史をもつ国内最高峰のレース「SUPER GT」でもGT500クラスで2014年、2015年と二連覇を達成し、三連覇へ大手をかけました。
そして、2020年になった今でも日産自動車はその優れた技術力を駆使して魅力的な車を世に排出し続けています。今後も様々なプロダクトで私達を驚かせてくれるでしょう。
